(糸) 忘れては思いだして引きずりだして。

 

 いと

 

 書いたのに 消えて

 また書き直して のこして。

 

 

 

 と  愚痴はそこまでに

 

 

今日は 糸に関連したことを  のべようか   と、

 

  エチカの教えで

私たちは 神の万物のちからを表現する、 物体であり

 その力の源は  様々な要因によって表現するに至るのである。

 

  ということで

 私たちは    無数の連なり絡み合った 糸のようなものが

       わたしたの 無意識 意志となり、  

             ちからの表現・行動することを体が成している。

 

 

 

 

 

  そんな風に捉えるんであれば。

 

 わたしの  出来ない

    弊害となる能力の不足だって、 沢山の糸が

  根源から伸びて連なって いるのかのしれないから。

   障害

   能力不足 欠陥と見るのは、

 

   そんな必要は ないのだろうな、と。

 

 

 

 

 

 

  それが 社会に通用するじかんでない 

  のだから 仕方ないのだけど、  そんな無数の要因たちを みつけていけば

    脳の違い 欠陥 で終わらせては

    適応には近づくが       本来のコナトゥスを知らずして

 

 永遠に 適応できないことへの苦しみから 逃れることは

  出来ないように思える。

 

 

 

 

  分かってはいるんだけど

 人間 愚かで楽な楽な方へと 向かっていくね。

 

  『いと』

 

 

 

 そして  情緒

 

 

 

 

 

 

 

 

 情緒がなくなっていく 

 

 

 というこの人の世。

情緒  情緒とはなんぞや

 

  人間の微妙な感情 醸し出す雰囲気 触れてもよおさせる味わい 感慨。

         心の動く糸口、 感情の発作

 

 

 

 

   なつかしさ

 

  普遍的な 郷愁感。

  ノスタルジア       ちょっと 話がずれたけど。

 

 

 

 

   それを引きおこさせる いとぐち

   とは  どんなものだろうか。

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

    しばらく

   支援所にお世話になって 整頓されていった

    考え や行動力  見つかった価値観の

   実行のため、    思いついたことの記録はしばらくやめようと思う。

 

 

 

 

   実践に 集中したいところ   できるだけ自分のできる範囲

         小さな範囲ではあろうけど 、触れ合いげんじつを直視したい。 

 

       私を作り上げることに 力を注ぎたいトコ

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

慢性疲労の中で

 

  書きたいことが 浮かんでくるけど

  体が 全く動かず  ノウも言う事をきかない。

 

    が

  精神もだいぶ むかしのはなし から逃れ、 前が見える。

   のと   本が面白い。 

 わたしはあまり 推理小説やミステリーものには興味がなく

  好ましく思ったことがないのですが。 いやこれが中々、 おもしろい

 

  それに 独特の話の切れ が好ましい 「猫丸先輩シリーズ」…

 

   推理のわからなさ 漢字の読めなさ、話の納得のいかないか所 あれど。

    ぶつかってくる思いと 話の切れが 最高すぎてきもちがよい。

     本は 捨てたもんじゃないと  また思う一つになりましたよ。

 

 

 

 

  

 

   

  さて   忙しいあたまに 疲労したのうでは

  これまた なかなかうまく思考が 働かないので 参考書物を チラチラみながら

   整理し述べていこうと。

 

 

 

二冊の本を読み終え

 思うことがいっぱい  他でまとめようとしているのですが。

 

  スピノザのエチカの解説では。

 

  

  近代の人々は 意志教なるものにすべての軸があると

   つよく信じて疑わないのだといいう事

   意志は存在するし、意志があるから人は 行動するけれど

 

  私たちの身体は 万物の表現体であり 

  それを操る糸は 複数の 無数の糸が。

 

  私たちの 体で表現するため に在るのだという事。

  沢山の糸、複数の力の根源があって 影響し意思となったり 

   また無意識の反応で 行動するのであるという事

 

 

 

 個人の意志一つで 物事はなりえないし、 

 原因ではない 意志一つで 物事の決定打になってるわけでない、

 

 意志は意識できるものだけど

 意志が自由になるための 万物でなく 万能でないのに。

 個人の意志を 常に 問う

 

 根源と見る この世は かなり説明のつかない無理な社会なのだ。

 

 

 

そして

 自由であるためには それぞれのコナトゥス(傾向のちから)を知り

  そのちからを縦横無尽に扱い表現できるようになること である。

 

 

 

  という エチカの教え、

 

 

 

 

 

 

 

  それと AIが人間に近づくというけれど、

  むしろ人間がAIに近づいていくという 作者の表しは深いかな

  万能な人間を求めていくうちに 人間は人間特有の 感情、想像性を失って

  一定のリズムを 刻んでいく  ただの機械化に近づく可能性の方がでかく、

   そこに 情緒は見られなくなってしまう。

 

 

    とさ。

 

 

 

 

 

 

 

 何とも頷きがたい話で

 でも納得してしまう、

そんな風に 滅んでいきたくはないな

 

 

 

 

 

   もう一冊の 戒めになる 言葉では

 

 

  人のノウの 最も重要な機能は

  一般に思われているかもしれない、個性的な思考をすることでなく

 普遍的 根本的には誰でも通用する、そういうことを思考すること

 

  相手と 違いと 共通し通じ合う事

 

  それを  喜ぶことかもしれない  と。

 

 

 

  つい  人と違うこと を気に病み、 

   過剰に反応し、 その個性を棚に上げがちな私には。

 耳が痛い だけどもこれまた 納得いく。

 違う事 今にないことを探るのに 価値はあるけど。

 

  やはり 根本ではなく、

  それ抜きには 本来の楽しさ や さみしさを拭うには十分でない

   かえられない 人間の本質

   ヒトの 一番の課題なのだろうな。

 

 

 

 

時には むかしの話を

 

 

 

 いまの ここちよい きもちをつづりたいトコ

  ではあったのですが。

  なかなか 定まらずにきもちがフラフラと 

 

 そして精神耗弱へのみちに進む。  ので、

 

 

 

   今日はむかしの話を

 

 

 

 

 

 

 

   そう。それこそ 昔の私は精神がくるい 体温も息も正常でなく、

    

   思考は 飛んで飛んで 遠くにとばすのが得意で。それは今もではあるけれど。

   現実を非シテ げんじつには非難の目・疎外の空気・責めてくる声・居ずらい席

    靴はなくならないけど。 

   どこにも行けなくて  でもりっぱに靴はいつもあるから

   行かなくちゃいけなくて、でも行けないから

    ぐるぐる自分の足元のはんいを 回るしかなくて。

    そうすると

   笑われるから うごけなくなって一歩も 。

 

    うごかない し聞こえないし みたくない から。

     私のすること 頭の中に世界を 会話を求めるのが

 

        私に成った。

 

 

 

 

 

 

   

 

  それはそれは くるしく でもここちよい、  

   ここちよさは一定なのに  でも

 くるしさは何故かどんどん 倍に倍になってどんどん押し寄せてきて。

 

  倍増してきたくるしみ で息ができなくなって…

  

   

 

   そんなときだった 気泡がたち、酸素の役割を

    みつけて  ああこれは 逃しちゃいけないと、 これを

  じぶんのモノに と

 

 

  吸い込んだ、      すぐに消えては 無くなる気泡に また会いたいと

 

  思ったのは。  この時で

  自分のものにしようと したんだ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    忘れていたわけじゃないよ

 

   常に 感じていたか

 

   と言われたら 昔ほどのこるもの ではなかったけど。

 

    常に息がし易くて くるしくなくて見えていたし。

     うれしかったし、 ただ

     元気になるにつれ   沢山の欲に潰れて あるのに

 

    在るのに 感じなくなっていって。

 

     そんな  消えてく気泡に またあいたい   って

 

     思ってたのに

    感じなくなってたの? 

 

 

 

 

       

 

 

  私は またあいたいよ   

 

 

 

 

 

 

 

           

 

      てな  ね、

 

 

 

 

    写真撮って ねこみて 隣座って

   歩いて ねて ねこいて 眠くなって  においに反応して。

   歌って 虫見つけて救済して、  かえって。

 

     写真に 満足してタイトル付けた。

 

 

 

 

  

 

   

  そんな

 静かな動きを 心がけたじかん

      

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

         

 

        

 

 

幾度なく立ちはだかる 精神ヒロウ

 

 眠いそして しんどい、

 幾度となく 前触れもなく立ちはだかるそれは。

 

  今回もやってきた、 時間がたつにつれ思う、それは

   わたしの 精神せいちょう の為に わざわざ用意してくださった、 ふみだい

    もしくは 、成長剤か何かなのだろう。

 

 

 

 そこから  えられるじぶんの狭き思いの気づき は

 

  かなり  しんどい、

  そして かなり初歩的なミスに 打ちひしがれることになる。

   

具体的に言えば、

 今回のは親しい人との別れ で もうそれこそ幾度も

 話し合いしてはの またの話しなので  驚くことではないのですが。

 

  悲しくしがみ付いて いたい過去

 認めたくない未来 かわる関係   に

 

   

    

    とまどいはかなりデカいもので

   

  いやしかし、

 

  

    思う形は 変えられる。

   どの 姿がいちばんなのか なんて

   それも 思い次第、

 

 

 

    

    一緒になることが  すべてではない よ

 

 

 と   良いたとえとして かの有名なスネイプ教授 をごらん  と

    きもちの  在り方に 善し悪しなく 

     形の違いで 思いの深さは測れませんと  な。

 

 

     そんな  おおきなこころもちで居たいかな。

 

 

 

    思い出も 思いの品も 手放すのでなく、

     ふと 私の思いに寄り添う モノに なってくれればいい。

 

 

    そう ありたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

  最近は 会話をすることにも少し慣れてきて

 

  じぶんのどこを伸ばせば

  社会で通用する、 カバー力になる、のか

 

  よく見えてきました。 手元の 手段になりうる、ものが 

   増えてきたように感じます、

   もっと 確実に使えるようにならないと いけませんが。

 

 

    そんなこんなは

    でわ また今度。

先を見て整える。

 

 

  先をみて 行動し、考えるちから。

 

 

   ある 私の通っていた 凡中高校 の掲げていた校訓だ。

 

 

 学校はともかく

  それは どんなことにおいても 人の生活の中で必要とされる教訓でした、

 

  と

    注意散漫 手つかずの定まる事のない思考だと認識してから

     よくわかります。

 

 

 

    

   

     そんな ことばは どうだっていいのだけど。

 

    

 

   今まで過ごして

    今思えば 空回りなことばかり繰り返して とまどうばかりの毎日

      五里霧中 といえる 生活じかんに 疲れ果てていて。

     

    あー    なんて 貧しいというと言いすぎな感じ で

         うまくいかない日々で 無駄に思えてしまうような生活だったのだろうと、

 

 

      思えてしまいがち でしたけども。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    こうやって

 

   正解か 不正解か わからない 

 

   でも 地に足がついた感覚が  地をけって踏み進むことができそうな

    今までにない感覚で、

   それを  自信というのか   とでも思い、

 

 

 

 

    まだ

   具体的な社会人生活は 見えていないけれど。

    それまでに なにをして 何が必要で 何をいますべきなのか

     必要なモノ 物を明確に 認識し始めることができる。

 

    必要において

 

    うごき  必要かどうか見極める、取捨選択

     不必要な時間など そこには存在しないと じぶんが証拠になる。

 

    充実 をかんじる、 疲れる。  服をたくさん着る。

      それを

 

       もっと  じぶんの空想の  

           ひたりたい楽しさに使えるようになれたら、もっと

          なにかに 思い描く なにか 

           皆が 知る何かに 成る一歩なんだろうけど。

 

 

 

 

 

  わたしには 今はまったく 。

 

 

 

 

 

 

 

 

      でも 此れがすべてなんだと 

         基 で

 

    先を見て行動する、  この能力や特性が劣るから

     いろんな弊害がうまれ、偏見され差別の対象になる、

 

    これが すべてなんだと思う。

 

 

 

 

  

   茶の入った、

   湯呑を じっと その温かさを

  ひんやりした 外界との差を 手で感じ 見つめる。

 

 

    そんなことが 大事で

     好きなほうならば。

 

 

  いまに  集中する力だってあるはずだよ

 

  その 的になる

  対象を 見つける癖、

  気づきさえ理解すれば。

 

 

 

 

          それだけのこと、

 

 

 

 

  

 そんなふうに考えると、

  無駄に思えてしまう過去の わたしは。

   それなりに がんばって いたように思えてきました

   ちいさい へんかだけど 探していたもの、 

 

   なかなか 見当たらなかったようだけどw

 

 

 

 

 

 

     

脱力状態からの りだつ 

  ようやく、 

  ひどい疲れから逃れる事が 出来た。

 

 

 祖父の 一周忌を終え、

 就労支援も 何とか通い、知能検査も結果終え。

 

  ひどく疲れて動けなくなってしまいました

  

  立ち直るのにも数日…

 

 

 

  せっかくわき 生じた考えどもが、

  消えていなくなって しまうよ。

 

 

 

   知能検査の結果は  まあまり気にしないが

 

   就労に関してでは気にしなくてはならず、  とにかく低い結果が。

 

    そうして 精神発達遅滞という いわゆる軽度知的障害という…

    診断結果が下され、

    それを 受け止める形で これから働くことを考えようとしてます。

 

   これがすべてでない ことは重々承知なのですが

   全般的に低いのを見ると   私は

 

     ふつうの 勉学というのは 一般のおべんきょうは

       やはりかなりきついように 思えて… 

      学びはするけど、 

        じぶんの思考回路に合わせた 

      わたしにも 少ないながらに物事の関連性 位置づけ意味づけ 

          の想像からの理解 思考の創作は 得意なので。

 

 

   悲しいながらに、

 

    普通のお勉強は 仕方は 性に合わず

     ただの時間の浪費 にしかならないかもしれない と

     悲しい現実を  認識せざる負えない。

 

 

    では 

   どのようにして 勉学を

    じぶんの回路に取り汲み 吸収していくべきか、

 

     何とも大きな壁に

    今は 見えてなりません。

 

 

 

 

 

 

 が      この検査結果の悩みを

       姉が またよく聞いてくれ、

 

       障害雇用うんぬん を一緒に考えてくれ

        何とか道が見えそうなので。

       ひとまずは  うんぬん

 

 

     こうよやって ぱっと気づいたら無くなる壁も

       いや

 

      もともと 壁でなかった 

     壁と思い込んでいた かべならざる壁。

 

      に     

 

 

       なるやも、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   関連性といえば

   スピノザの エチカの 解説本を読んでいるのですが、

 

     読んでいると不思議

    まあ 私が好んで読むことを選択しているから なんらかの共通は

     あっておかしくはないのですが。

 

    何人かの 考え 価値観言葉の作用が  

     同じだったりして。 

     ちょとびっくり、

     ここで  必要な言葉が 何度も見られるのかと。

      選択した本に 感慨無量であります。

 

 

   

      世の中は とても広いようで

 

       広い中にもたくさん 共通箇所 でいっぱいなのかもしれません。

           世界はだがひろいけど 

 

 

 

      すこし 嬉しいような

      だだっ広さに 圧倒される中で 

 

      拾い上げる モノが見つかりそうなそんな感覚。

     

今日は短く

 

 

 とても 体がつらい 神経が張り詰めて 呼吸がしづらい。

    じかんを

 

   計画どおりに おこなう、事

   意識し続けて 日常に当たるのは  充実アリ

  だが  じぶんの空想時間にも 区切りができ  息苦しい。

 

 

    頭を 飛ばすのが おもなひとなのに 

     それができないのは、 

    屈辱と 耐え難い  或る意味の虚無だ。

 

     不安のない虚無だ

     何もないことに 不安を感じない充実感、

 

    つらい 

 

    体力的にも

    ひどくおかしなことになる。なんてひ弱なんだろう、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    そんなこんなで

    早めに切り上げたいトコ。

 

 

 

 

 

 

      まだ 通う事決定になっていない、

       就労支援での 日々

 

 

    数人 で決められたプログラムの 会話をするのだが

 

     やはり  うまいひと  というのはよく聞きかならず反応する。

          わたしはじぶんの話を伝えることに

          人の意見を聞くことに 精一杯で 満足して

           終わりにしてしまう。

       そして  同じような方で会話するとどうか、

        じつに    達成感なくつまらない、 不満が残る。

 

 

      何故かって、 

         皆 じぶんの事だけ伝えたつもりになって、

            そこで終わるから

           続かないから なにもないのだ。

 

        待ってるだけじゃ ことが進まないように、 

        話を掘り下げない限り

         言葉は 深まらない  答えるだけじゃ…

 

    それが 中々難しくて できないカベなのだけど

 

 

      楽をするのは  簡単 で

     ぶった切ればいい

      繋いでいくのは  難しく苦労し試行錯誤の連続で きついさ

       手放すのは楽だ。

       でも何も残らない。

       それを行ったものだけが、のちのち 仕上がりを目にできる。

 

      達成感 

 

  今だけの 満足感か

 

  後味の 長い満足感か、    それを幸福と呼ぶのか。

 

 

      努力 とよぶものか