先を見て整える。

 

 

  先をみて 行動し、考えるちから。

 

 

   ある 私の通っていた 凡中高校 の掲げていた校訓だ。

 

 

 学校はともかく

  それは どんなことにおいても 人の生活の中で必要とされる教訓でした、

 

  と

    注意散漫 手つかずの定まる事のない思考だと認識してから

     よくわかります。

 

 

 

    

   

     そんな ことばは どうだっていいのだけど。

 

    

 

   今まで過ごして

    今思えば 空回りなことばかり繰り返して とまどうばかりの毎日

      五里霧中 といえる 生活じかんに 疲れ果てていて。

     

    あー    なんて 貧しいというと言いすぎな感じ で

         うまくいかない日々で 無駄に思えてしまうような生活だったのだろうと、

 

 

      思えてしまいがち でしたけども。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    こうやって

 

   正解か 不正解か わからない 

 

   でも 地に足がついた感覚が  地をけって踏み進むことができそうな

    今までにない感覚で、

   それを  自信というのか   とでも思い、

 

 

 

 

    まだ

   具体的な社会人生活は 見えていないけれど。

    それまでに なにをして 何が必要で 何をいますべきなのか

     必要なモノ 物を明確に 認識し始めることができる。

 

    必要において

 

    うごき  必要かどうか見極める、取捨選択

     不必要な時間など そこには存在しないと じぶんが証拠になる。

 

    充実 をかんじる、 疲れる。  服をたくさん着る。

      それを

 

       もっと  じぶんの空想の  

           ひたりたい楽しさに使えるようになれたら、もっと

          なにかに 思い描く なにか 

           皆が 知る何かに 成る一歩なんだろうけど。

 

 

 

 

 

  わたしには 今はまったく 。

 

 

 

 

 

 

 

 

      でも 此れがすべてなんだと 

         基 で

 

    先を見て行動する、  この能力や特性が劣るから

     いろんな弊害がうまれ、偏見され差別の対象になる、

 

    これが すべてなんだと思う。

 

 

 

 

  

   茶の入った、

   湯呑を じっと その温かさを

  ひんやりした 外界との差を 手で感じ 見つめる。

 

 

    そんなことが 大事で

     好きなほうならば。

 

 

  いまに  集中する力だってあるはずだよ

 

  その 的になる

  対象を 見つける癖、

  気づきさえ理解すれば。

 

 

 

 

          それだけのこと、

 

 

 

 

  

 そんなふうに考えると、

  無駄に思えてしまう過去の わたしは。

   それなりに がんばって いたように思えてきました

   ちいさい へんかだけど 探していたもの、 

 

   なかなか 見当たらなかったようだけどw